私が何かを描こうとした時、当然その何かが存在します。 その「何か」とどれぐらいの距離を置くのかどうかというのが今回の「距離感」です。
この距離感には、二つの意味があると思います。 一つが実際の何メートルという距離。もう一つが、心理的な距離です。
最初の距離についてですが、常々ノンフィクションの距離というのが苦手でした。 一言でいってしまえば、とても遠いような印象があったのです。具体的にいえば、現場で「見学」しているだけ。あるいは「取材」しているだけという印象が拭えなかったのです。 これと対照的なのが写真です。写真家のエッセーを読むと、ノンフィクション作家のそれよりも対象がずっと近い。対象の暮らしの中に入り込んでいって、そこで勝負しているのです。
たとえば大学時代に読んですごいなと思ったものですと、「ヒジュラ――インド第三の性」(石川
武志・青弓社) という本があります。 写真家の石川武志さんがインドのニューハーフであるヒジュラの写真を撮りにいった時の記録なのですが、著者は実際にその生活の中に入り込んで、そこで彼らの暮らしをみています。 抽象的な議論もしていますが、かならず生活に根付いた語り口になっており、その上で彼らの生活を明らかにしていっているのです。
しかし、もしこれをノンフィクション作家と呼ばれている人がやれば、会ってインタビューして抽象的に物を語って結論付けて終了というのが関の山でしょう。 これをやられると、わかりやすいかもしれないけど、文章や体験に血が通わない。涙も、恐怖も、怒りもわかない。 そういう意味で、僕はノンフィクションの距離よりも、写真家のそれにずっと憧れていたのです。
僕がこの実際の距離を大切だと思うのは、当たり前なのですが、距離を短くしなければ誰も本音を語らないということです。
例をだしましょう。
例@ ビルゲイツが自家用ジェット機であなたのところへやってきて、高級フランス料理をふるまって、通訳を挟んで「さて、君が直面している仕事の苦悩を教えてくれ」といったとします。ちゃんと話をしてくれたら50万円あげるよ、と。さて、あなたはどう答えるでしょう。
例A ビルゲイツが自転車に乗ってあなたの家にやってきて、「無一文ですが、日本人の苦悩ををしりたいから是非一週間家に泊めてください」と頭をさげて、一緒に満員電車に乗ったり、上司に怒られたり、残業したりして過ごしたとします。さて、あなはどのような情報を彼に与えられるでしょう。
もちろん、どちらのビルゲイツも回答を得ることができるでしょう。 しかし、前者のビルゲイツが得た回答をまとめた所で、「本当の日本人の働く姿」が映し出されると思いますか? せいぜい決まりきった問題が上手に列挙される程度でしょう。 一方、後者であれば本当に生活に根ざした実体験から痛み、苦しみ、悲しみ、怒りというものがわかるはずです。理論にはならない本当の感情がそこにあるはずです。
僕が「距離」を大切にするのは、そうしたことを意図してのことなのです。
さて、次に「心理的な距離」について。 先ほどは、実際の距離についていいましたが、心理的な距離とはそれと一体のものだと思っています。
たとえば、精神的な障害をもった人が叫んでいたとします。 僕がその人をまったく知らなければ「怖い」と思うでしょう。ちょっと知っていたら「大丈夫かな」と思います。親戚だったりしたらあわてて走っていって事情を聞くでしょう。
誰でもそうだと思うのですが、その人のことを知らなければ99%偏見で見ようとします。 もし少しでも仲良くなってその人のことを知れば偏見へ50%ぐらいに抑えられ、残りの50%は相手への思いやりが芽生えるでしょう。 さらに肉親だったり、幼馴染だったりしたら、偏見は限りなく0に近づいて相手と接することができるはずです。
僕はノンフィクションにおける対象との距離もかくあれと思うのです。 普通に出かけて言ってインタビューをすれば、お互いの距離は開いたまま。そらく本人は偏見を抱いていないつもりでもかなりの溝があるでしょう。
しかしそこで一緒に暮らして、しゃべって、飲んで、眠って、ということをしていれば、次のステップへいけます。つまり偏見はあれど、半分ぐらいは抑えられるし、残りの半分で相手の心の底が見えてくるはずです。 僕はこの「距離」をいかに縮めていくかということがものすごく大切だと思うのです。
ただ、これは当たり前といえば当たり前のことです。 僕は距離を縮めることの意義は、さらにその先にあると考えています。
距離を縮めていけばいくほど、対象の状況や心情がわかってきます。 すると、どうなるかといいますと、その対象への思いやりが芽生え、非難することができなくなるのです。
たとえば先に出した精神障害をもった人が人殺しをしたとします。 もしその人のことを知らなければ「危険人物は要注意」「国が責任をもて」「家族が見張ってろ」「表にだすな」ということになるでしょう。 よくテレビで討論しているアレです。彼らは対象と触れ合ったことがないから、非難することができるのです。
しかし、対象の内面の苦しみ、葛藤、矛盾といったものを知っていれば、決して罵倒することはできないはずです。かといって、その人をほめることもできないかもしれません。 僕はこの部分がもっとも重要だと思うのです。 つまり、「非難することも、褒めることもできないどうしようもない部分」ということこそが、真の現実だと思うのです。
この部分が主題になりうるか否かはとても難しい問題です。
「批判する」という立場にたてば、それはテーマとして成り立ちません。 しかし、「描く」という立場にたてば、それしかテーマに成りえません。
そういう意味では、僕はやっぱり後者が好きですね。 |
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