| ノンフィクションの方法 ノンフィクションのスタンス |
何かをつくる時は、作り手はスタンスをもたなければなりません。 これは作品における自分の立ち位置ということになってくるかと思います。 どういう立場で、どういうものの見方をして、それをどう描いていくかということです。
ものにもよりますが、僕はこのスタンスを大体次のように定めています。
・人の汚い所に愛情を注ぐ ・可能な限りやさしい視点で相手を見る ・相手の目線で自分を睨む ・偉そうな態度をとらない ・自慢しない(悲惨自慢や恐怖自慢も含める) ・理屈でなく、描写でテーマを描く ・アンビバレントをテーマとする ・悩んだら削除する ・答えがでないものを答えとする
などです。 この中で一番難しいのが、「偉そうな態度をとらない」「自慢しない」「悩んだら削除する」ということではないでしょうか。
僕は、ノンフィクションって作者がとても偉そうという率直な感想を抱きます。 誰がどうだということではなく、上から物事を見下ろして、結論づけるのが正攻法であるかのような風潮があると思うのです。なんか偉そうに「○は×だから△である」なんていっている。 僕はこういう視点が大嫌いなんです。「そうかもしれないけど、オマエ一体何なんだよ」といいたくなってしまう。 なので、僕は上から見るのではなく、同じ立ち位置で見て、さらに彼らの立場で自分を睨むという立場を守ろうとしているのです。
「自慢しない」というのも似たような意味合いがあります。 ノンフィクションを読んでいると、なぜか作者の自慢を聞かされることがあります。 「こんな危険なところへ行ってしまったぜぃ」とか「こんな悲惨なんだぜぃ」とか「俺、こんなこといってる。すげえだろ」みたいな自慢です。 たしかにその場へいくと、こういう自慢をしたくなるものです。事実、体験というのは自慢できるものですからね。 しかし、他人からすると、人の自慢ほどウザイものはない。 なので、事実はどうであれ、「普通に行って、普通に出会って、普通にすごした」と書くようにしています。本当は結構「普通」じゃないんですが、そう書くことによって自慢の部分を消すようにしています。
最後の「悩んだら削除する」というのはとても難しい作業です。 つい昨日も「まえがき」の部分で悩みに悩んでバサッと一刀両断しましたが、ノンフィクションの場合あながち体験しているものですからそれが脳裏に焼きついて離れません。 物語には余分なところなのかもしれないけど、体験したイメージがつよすぎて、そのイメージを切り離して考えることができないのです。 体験してしばらくすれば経験が浄化されて切り離せるようになるのですが、体験して1年とか2年ぐらいしかたっていないとそれができないのです。 しかし絶対に切らなければならないことがあるのです。僕は「悩むか否か」を判断基準にしていまして、悩んだら削ろうと思っています。あるいは、これ必要? と指摘されたらバサッと切るようにしています。
ざっと書きましたが、たぶん、モノづくりをする時は、誰もがこうしたスタンスをもっているものだと思います。映画だって、料理だってそうでしょう。 そして、そのスタンスそのものがつくり手の特徴になってくるのです。
そして、この特徴の受け止められ方こそが、作品の空気そのものになってくるのではないでしょうか。
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