僕はペンネームでフィクションの仕事をしています。
一方、本名でやっているのはノンフィクションの分野。
今も新しい作品をゲラにする前の段階で色々と直している最中ですが、これは現実の世界です。
ただ、僕はフィクションも、ノンフィクションも「つくり方」は同じだと思っています。
フィクションは、自分の内面にあるテーマをドロドロに溶かして物語化していきます。
たとえば、兄弟の友情というテーマがあったとします。その上で、ラストの一場面が何かの切っ掛けで思いつきます。
では、そのテーマとラストをどう結びつけていくかということで、四苦八苦して想像力を駆使しながらラストに結びつけるための骨格をつくっていくのです。
ノンフィクションの場合は、テーマがあって旅をします。
その上で、「体験」の中からラストシーンになる部分を抽出します。
そして、他の体験をドロドロに溶かして、そのラストシーンにうまくつながるように骨を組んでいきます。
たぶん、この「ドロドロに溶かす」というのが分かりにくいですよね。
たとえば、現実というのは必ずしも1⇒2⇒3⇒4⇒5とつながっていません。
4⇒1⇒3⇒5⇒2だったりするのです。しかし、そのままだと話としてのつがなりがなくなってしまう。話にするには、事実を再構成するしかありません。
そのために、たとえばその中からラストの5を抽出して、それを5が一番テーマをもって生きる形に体験を記憶の中で浄化して並べ替えて整えるのです。
(ちなみに、ノンフィクションという「舞台」で、どこまでこの再構成が許されるのか、という議論があります。主にテレビドキュメンタリーの分野ですけどね。この「どこまで」というのはとても難しい話なので、ここでは詳しくは述べませんが、参考までに『テレビの嘘を見破る 』をお読みください。いろんなことを考えさせてくれる本です)
ともあれ、このような意味において、僕にとっては、フィクションもノンフィクションも「想像」をドロドロに溶かすか、「現実」をドロドロに溶かすかの違いで、つくり方は同じなのです。
それなら、フィクションだっていいじゃないか。
ノンフィクションみたいにお金もかかるし、時間もかかるし、しかも売れないし。。。
そういう意見もあるかもしれません。
しかし、僕がノンフィクションが隙なのは、現実、もっといってしまえば体験のもつ力に魅了されているからなのです。
どれだけ偉い人や、頭のいい人が論陣を張っても、絶対に一つの体験には勝てません。体験というのは、それだけの力があります。
この典型例が、『猥談―近代日本の下半身 』という対談集にあらわれています。
日本文化のワイセツな話を民俗学者の赤松啓介と大月隆寛、それに社会学者の上野千鶴子がしている対談集なのです。
これが面白い。
赤松啓介というのは『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論 』という体験に裏打ちされた本を出しているような人で、根底社会の性を実体験で語れる人なのです。
それに対して上野千鶴子は頭はいいですが、理屈で語るいわゆる頭脳派学者です。
本の中では、上野千鶴子が色んな形で理論や理屈を提示し、女性の権利といった話をします。
しかし、赤松啓介はそれを実体験でことごとくひっくり返していきます。実体験を語られると、どんな学者でも理屈をひっこめざるをえない。
いくら理論武装して理屈を語っても、赤松啓介が「わしのオンナはこうじゃった」と一言いえばそれが理屈を破戒してしまうのです。
この本を読んでいると、それが顕著に感じられます。
はじめてこの本を読んだのは、もう十年ぐらい前なのですが、最近あらためて図書館でこの本を見つけて読み直して、「ああ、僕はこういう体験の力が好きでノンフィクションを書いているんだな」と思ってしまいました。
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