なぜノンフィクションを書くのか。 時々訊かれることです。危ない、金にならない、何かが変わるわけでもない。それなのに、なぜそんなことやるのか、と。
たしかに、一理あると思います。 平和に暮らしたければずっと日本にいればいい。お金がほしければ、もっといい仕事がたくさんあります。何かを変えたければ、政治家にでもなればいいでしょう。 そんなこと人にいわれるより、何百倍も僕自身がわかっています。
それでもやるのは、理屈にならなり理由があるからなんです。 よくものづくりの苦しみを「産みの苦しみ」といいますが、僕にとってペンをとる動機というのは「妊娠」と同じなんです。
たとえばカップルはお互い愛し合って、その延長線でセックスするわけです。さらに、計画的にせよ、予期しなかったにせよ、妊娠してします。 女性は妊娠したら基本的には産むしかありません。出産が「危険」だとわかっていても、「痛い」とわかっていても、「仕事の一線から遠ざかる」とわかっていても、それでもお腹はどんどん膨れて行って、生むしかなくなるのです。
たぶん、僕にとってノンフィクションをやるというのはそれと同じことなのです。 男と女が様々な形で知り合うように、僕は本を読んだりして「テーマ」と出会います。 そしてカップルが必然的にセックスにいたるように、僕は外国へいってしまいます。カップルが「性病」を恐れたり、「ホテル代がもったいない」なんて考えないのと同じく、僕も「危険」を恐れたり、「取材費がもったいない」とは考えません。
そうして、女性が妊娠するように、僕もお腹の中に「書くべき内容」が宿ってしまいます。 こうなるとあとはどんどんお腹が大きくなっていきます。胎児が成長していくように、書くべき内容がみるみるうちに膨れ上がっていく。 こうなると、否応にも書くことによって「出産」しなきゃならなくなります。だから、十円禿げができようと、じんましんだらけになろうと、不眠症になろうと、とにかく机に向って書き上げようとするのです。 お腹の大きくなった女性が産まないという選択肢がなくなるのと同じように、僕も書かないという選択肢がないのです。だから、書く。それだけの話なのです。
こう書くと、「妊娠と書くことは全然違うよ」といわれるかもしれません。 しかし、他人がどう思おうと、僕にとってはまったく同じ話なのです。もちろん、立派な建前をつけようと思えばいくらでもつけられます。世界の人々の暮らしを伝えたいとか、問題的したい、とか。けど、それは二次的な理由なのです。あくまでも動機は上に述べたようなことなのです。
不思議ですよね。僕自身、本当に不思議だと思います。 ただ、たぶん、それは絵をかくにしても、会社をおこすにしても、何かを作ろうとするのはそういうことなんじゃないかなと思います。あとからいろんな理由はつけられますが、本質の部分での動機は言葉では言い表せない衝動のようなものなのだと思うのです。
ちなみに、もうひとつ奇妙なことがあります。 書き上げる時までは、頭の中はそれしかありません。24時間ずっと考えています。毎日夢の中でどう書くかを考えていますからね。 ただ、面白いことに、書き終わって人に見せた途端に、フッと自分の手から離れてしまうのです。 赤ちゃんを産み落としたときから赤ちゃんが別の生き物になるのと同じように、自分の手の届かない所へ行ってしまいます。そうなるとそれに対して愛着はあるのですが、もう自分とは別のものになっちゃうのです。
もうすぐで書いた原稿がゲラになってもどってくる予定です。 それからはタイトルを考えたり、章タイトルを変更したり、細かい訂正をしていかなければなりません。 けど、先述したように、すでに別の生き物になっているので、なぜかそれをすることに変な躊躇いがあるのです。周囲からすれば「オイオイ、まだ終わったねえだろ」という感じなんでしょうが、僕としては自分のものに手を加えるという印象ではなく、他人のものに手を加えるような気持なんです。 ま、これも不思議といえば、不思議ですよね。
ともあれ、人は色んなことを言いますが、僕はそんな思いでやっているのです。 あと10年もしたら、生理が止まって「子供がうめない体」になってしまうかもしれません。あるいは、経済的に行き詰って「中絶をしなければならない状況」になってしまうこともあるでしょう。 ただ、産めるうちは産みたいと思っています。それだけの思いでやっています。
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