ノンフィクションの方法 私なりの方法論


僕は、ノンフィクションは文学たれ、と思っています。
ノンフィクションというと、作者が客観性を守って、証拠でもって事実を組み立てていくものが主です。
僕はこれが悪いとは思いません。絶対に必要なことだと思いますし、物によってはもっとも有効的な方法論だと思います。

しかし、僕はそうやりたいとは思いません。
僕は客観的な事実は書きつつも、主観的にそれを捉えるという方法をとります。
昨日新しい本の直しのために某出版社でそんなことをはなしていたら、「私小説」といわれましたが、まさしくその通りでなのです。

ただ、文学の私小説では、その限界がよくいわれます。
結局のところ、「私」を掘り下げていったところに普遍性などはあるのか、とか、自己満足に過ぎないのではないか、とかイロイロと。

けど、僕の場合は文学で私小説をやろうとしているのではありません。
ノンフィクションのステージで私小説をやることによって、「私」を通して普遍性を示すというのではなく、「私」を通して日本人と現地の人のあり方だとか、立場の違いだといったものを表すことを目的としているのです。
それが良いか悪いかではなく、たぶん、そこがフィクションのジャンルで私小説をやるか、ノンフィクションのジャンルで私小説をやるかの違いになってくると思うのです。

では、なぜそんなことをしようと思っているのでしょうか。

最初に書いたように、従来の正統派ノンフィクションの方法論は素晴らしい方法だと思います。
たとえば何かを告発するとか、歴史を掘り返すとか、固定観念をひっくり返すといった分野では今後も末永く重宝されるでしょう。
しかし、一方で、それはほとんど完成形になってしまっており、今更それをやりつづけたところで、何か違ったものが見えてくるとは思えませんし、物事への新しいアプローチが生まれるとも思わないのです。

だからこそ、僕は僕なりの私小説的ノンフィクションの方法で以下のことを試しているのです。

「これまで『私』を通さなかったものを通してみるとどうなるか」
「人々の『感情』のうねりを浮き彫りにしてみてはどうか」
「見下ろしてきたものを平らにしてみてはどうか」
「北から南を見てたものを、南から北を見てはどうか」
「黙っていたところを、怒鳴ってみてはどうか」

これがどこまで通じるのかどうかわかりませんが、少なくともこれまでの方法論でやってきたものとは別のものが見えてくるはずです。
僕としては、読んでいる人が、別の視点から物事を見つけることで、これまでとは違ったものの感じ方、あるいは世界の見方をしてもらいたいと思っているのです。

あとは、野となれ、山となれ、です。





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